また、例によってスピリチュアル系な本を創ってるんですが、「ハートの真実を生きる」っていうキャッチに、“わからない”だとか“心にカエ”だとか赤入れてくる担当ってどうよ?
ワタクシにいわせれば、そんな奴は最初からスピリチュアル本の企画なんか出すなって言いたいわけで。勉強不足だと思うし、勉強してもなおわからんのだったら適性がないとしか思えない。
「ハート=心」で置き換えたら、意味が違っちゃうきちゃうでしょ?
「心」なんてのはあやふやだから、持ち様や有り様で、幸せにも不幸にもなるのよ。
あいだみつお先生も言ってるでしょ。「しあわせは自分のココロが決める」って。
「ハート」は、身体の部位でもあるわけだから、現実的な感覚をともなうでしょ。胸が痛むとか苦しいとか、経験的に理解できないものでしょうか。緊張すれば物理的に心拍数が上がる訳だし。
で、ハートは♡でもあるように、愛情やら感情やら見えないチカラをあらわすものでもあって、そういう意味もひっくるめて「ハート」なのよ。アツいハートや、ガラスのハート、オープンにしたり、ブロークンになったり。そういうニュアンスとして、ハートを使いたいのだから、わからないって言われても困ります。
でさぁ、少なくともスピリチュアルとか見えないチカラとかに興味が湧くからには、誰でも多かれ少なかれ経験的に知ってると思うのよ、心と身体は密接に関わってるって。だから、波動とかエネルギーとかって言葉もなんとなく受け入れられたり、さ。
色や形がなくて触れなくても、計測器で測定できなくても、確実にあるって確信できるものはあると思うのよ。
でだ、こっからは(も?)推論なんだが、この場合のハートっちゅうのは、身体の部位であり、見えないチカラであり、さらにはある役割をもった関所っつうかゲートっつうか、そこを通じて何かが出入りする要所な気がする。だからガチガチに固めて守ってれば安心な気もするけど、外からな〜んにも入って来れないからそりゃま、つまらんし、そもそもその中には自分ひとりしかおらんのだから、モーレツに寂しくなるでしょうよ。
以前、「ハートを開く」を実践しようとして、やたらと自分の過去の恋愛遍歴やら何やらを訊かれもしないのにさほど親しくない人にまで赤裸々に話す子に会ったことがあります。本人が吹っ切れてないから、そういうの聴いてるほうも痛いのよね…。それって、ゲート開いてないよね。門はがっちりしめて、物見台の上から石を放って様子を伺っているだけだよね。それでも逃げ帰らないで、強引に門を破ってくれる人こそを待ってますみたいな自己主張だよね。あ〜あ。
ということで、話がそれましたが。
ハートの真実を生きるんですよ。
ステキな言葉だと思うのです。勇気づけられるです。
だから、赤字どおり「心」に修正すれば、波風立たずに済ますこともできるのですあが、それではなにより私が、ハートの真実を生きてないことになっちゃうんです。だから、そういうものには楯突きます。ただし、いつまでも騒いでいると、周囲に迷惑というものがかかるんだわ、とようやく気づいたアラフォーですので、叫び足りない部分は、こうしてブログにしたためたという訳です。
っていうか、今、誤変換から面白いキャッチが浮かんだ!
「 叫び足りない、酒浸り 」
お後がよろしいようで。