状況に「悪」のレッテルを貼ってしまうと、
永遠にその原因を追及しなければ気がすまなくなりますね。
争いごとなら「どっちが悪いのか」っていう白黒をつけようとしますし、
怒りや悲しみの原因を外側に置いて、自分は被害者なんだっていう気分にどっぷり浸かることもできます。
そして、その原因が「それは外ではなく、内側にある」のだと知っている“スピリチュアルな人”は、
その「悪」の原因を求めて内側に向かい、繰り返し探求を続けることによって、
自分を裁く鞭のふるい方に磨きをかけていってしまうような
……そんなきらいがあるように思います。
すべてはあるがままで完璧。
神を外側に追い求めるのも、
裁くべき悪を追及しつづけるのも、
悟りや覚醒を遠くに置いて追いかけ続けるのも、
結局はおんなじことだったりするわけです。
「ダメなことなど何もない」
「一切は悪くない」
「あの人たちも、たとえ誰であれ、そして自分にも、人として問題などない」
「私のスピリチュアルな生活は、ある意味、ずっと自己否定の連続だった」
「『真理に達するためには、自分には変えなければならないことがたくさんある』という隠れた方程式に縛られていた」
「もっと気高さ神聖さを身につけようと、話す言葉に注意して、『糞っ』、『畜生』と言うのは止めたり、スピリチュアルに相応しくない部分を変えようとしていた」
「すべての方程式に共通していたのは、『いまの在り方、自分の在り方は正しくない』という感覚でした」
「どこかに問題があるという感覚、それこそがエゴの虜だった」
by アジャシャンティ