みなさん、頭で考えすぎてばっかりいませんか?
スピリチュアルな生き方が問われる昨今、精神性ばかりが重視される風潮の中で、自分の肉体とその感覚を軽視してはいませんか?
結局のところ、頭は計算をするところです。「ああだから、こう(に違いない)」とか「こうすれば、そうなる(だろう)」とか、自分の都合のいいように解釈したり憶測したりするもんだっから、結果として間違った(←人生に「間違い」などはない、すべて「学び」とは思いますが、あえて…)選択や、痛い思いをしてしまうということがあるように思います。
西洋では、よく「マインドではなく、ハートで選択しよう」的なことが、言われるわけですが、マインドが頭だとしたら、ハートとはなんなんでしょう? 心であったり、感情であったりという見方もあるでしょうが、私はあえて直訳した「心臓」にこそ、その言葉の本質があるのではないかという気もしています。
この場合「心臓」といえば「芯の臓」ともとれるわけで、すなわち肉体そのものを表しているととらえています。魂が本質で、肉体は乗り物というときの肉体です。この言葉が真実である証拠に決定的に肉体が衰えている現代人は、その言葉をエクスキューズに精神性ばかりを声高に唱いあげてしまっています。これこそが頭(マインド)のなせる技です。
どんなに立派な書物を読んでも、素晴らしい話を聞いて感銘を受けても、身体的な感覚がともなわない体験は、肚に入らないようです。と、言い切っては語弊があるかもしれませんが、少なくとも私はそうでした。
言葉で得た知識はどんなに吟味咀嚼してみたところで、それを言葉のまま消化しただけでは、たんなる言葉遊びにすぎません。体験をともなってこそ本当の意味で理解できる。…と、このくだりそのものを、頭ではわかっていたつもりの私が、ようやく体験の体感する機会にめぐまれたようです。
詳細は今は省きますが、結局のところ、体験(体感)するには、まず肉体とその感覚がしっかり機能する状態でないと、得るものも得られないということ。もともと素晴らしい肉体というセンサーを与えられているのに、錆びついて固まった状態では、役に立たない場面もあるということ。だからこそ、肉体を敬いケアをしていく必要があるということ。
「快は解なり」私の好きな言葉です。
その言葉をこれまで私は、たんに快を追い求めるという意味でとらえていました。しかしどうやらその本質は、「不快」を正しく認識することが、「快」を知る(もしかしたら唯一の)術であるというところにあるのでないかと思えるようになりました。
逆説的ではありますが、比較検証をするということは、いちばんわかりやすいですもんね。