小手先でなんでもやれるから、私から見ると横柄な編集者が増えました。
…とは、とある現役作家氏の日記(のセルフコメント)にありました。ご自身も以前編集者をされていた経験から、今と昔の編集者の違いみたいな話の中で出てきた言葉です。
常々「何でも屋」を自称し、PCとITのチカラを借りてひとり何役もすることがエライことだと思っているフシがあるワタクシにとって、とてもキッツーイ一発です。
級数計算したり、トレペと定規と赤鉛筆で写真指定したりという技術が必要であった編集職が、DTP化によって変化したことを嘆いておられるような文面に、「そんなことはない、道具が発達したからかえって編集者のやれることが増えて面白いのだ」とナマイキにも反論めいたことをコメントしたワタクシへの、返信だとも思われます。
また作家氏は、非効率であっても多くの人の手を経て作り物が出来上っていくからこその感動があったことをなつかしく語っておられました。言外に何でもひとりでやってしまうようでは、その感動も得られないのではないかと指摘しているようでした。
ギャフン…
そもそもこのワタクシが出版界をこころざし、編集者になろうと決意らしきものを固めた頃にはすでにMacがDTPがWYSIWYGがありました。おませで小ざかしいワタクシは学生時代からものの本を読みあさり、これからの時代はコンピュータだとDTPの習得こそが一人前の編集者になる近道だと熱意を燃やしていたのです。エディタースクールという編集者養成所に通った一年でも、熱心にやり通せたのはDTP実習だけ。Macが欲しくてバイトして、そのせいで他の授業はサボるというトンチンカンぶりでした。
LC475が部屋にやってきた日には、永遠の愛を誓ったものです。これから一生付き合っていこうねって…。
で、ですね。それからいろんな紆余曲折があって現在に至るのですが、MacとかQuarkとかDTPのおかげで良かったとおもうことは数あれど、そんなふうに自分を省みることせずにきたことを恥ずかしく、またとても危険なことだと気づかされたのでした。
何でも自分でやってしまうことと、多くの人の手を借りてチームで成し遂げること。
どっちが良い悪いということではないのだろうけど、良いやり方はひとつではないということかな。
仕事環境にちょっと変化が起こりそうなこの秋にふさわしい学びのテーマを与えられた気がしています。
ありがとうKEIさん。