昨晩は、東大で田口ランディ女史の公開講義を拝聴してまいりました。
テーマは「生きてるって、どういうこと?」。
水俣病、チェルノブイリ原発事故、広島の原爆…それぞれの被害者や、ガン告知を受けた人や、統合失調症と診断された人たちを取材していくなかで、ランディさん自身が“生きる”ということを、どう捉え、その意味を獲得していく過程をお話しされました。
もとよりランディ大好きの私ですから、彼女のエッセイやブログを読む時と同じように、話の内容はスッスッと入ってくるわけです。東大だから、講義だからといって難しい言葉を使うのではなく、彼女の文体と同じような、さりげなく何気なく語りかけるような口調で、そして時折わざとぶっきらぼうな物言いを交えて、正直に飾らずに、自分の実感を自分の言葉で伝えようとしているのが、ひしひしと伝わってきました。
ランディさんのお姿は、Web上の写真でしか知らなかったので、教室に入って来るなり机のレイアウト変更を指示した第一声には少なからず驚きました。
一つには「声がイメージと違う…」。一つには「(本人も言ってたので遠慮なく)わー、背ぇちっちぇ~」。そして話している最中も、人の話を聞いているときも、くるくると変わる表情。(いい意味で)すごく普通で可愛い人なんだな~と。そりゃ男にもモテるだろうと。気合入った真っ赤なコートの下は、冬のモテ服タートルネック! …さすがです。
さて、肝心の講義内容。正直むずかしいテーマではありましたので、論旨のようなものは把握できたように思いますが、どの程度深く理解できたという点においては、少々自信がないです。たとえばこれが現代文のテストの題材なら、選択肢の中から意訳を選んだり、箇条書きで趣旨をまとめたりはできそうなのですが、この講義を基に小論文を書けと言われると、何を書いていいかわからない感じ。
なんとなく自分がいつも思っていることとリンクするような気はしているのですが、もうちょっとちゃんと考えないと言葉として外在化させられないな…と。
…なんていう逃げを打ちつつ、備忘のために以下箇条書きにて。
・外在化、抽象化、責任
大事なのは言葉の定義ではなくてニュアンス。でもだからこそ誤解も生まれる。
○○だから××という断罪も、まずは言葉ありき。でも言葉でしか表現できないのが作家。
・主体性 実感 質感
体験していない私が、話を聴くことや文章を読むことで感じているシンパシーのようなものに実感や質感と呼べるものがあるのか? →情報過多、ブログの危険性
・水俣、チェルノブイリにあって、広島にないもの
魚や泉の水のような大地の力のようなもの? → 信仰の基になるもの??
・vs 柳田邦夫(外在化の権化)
降りないで戦ってほしい気も。作家としてだけでなく、女としても母としても持てる武器を総動員して。
ギュウギュウ詰めの教室で熱気と酸素不足にあてられて、ついでに知恵熱も出たのか軽い頭痛に襲われたのを言い訳に、懇親会に残らずにそそくさと教室を辞しました。駆け寄って握手を求めれば叶ったであろう出会いのチャンスでしたが、その勇気がもてなかったへんごったれなワタクシですが、もし来年また同じようなチャンスがあれば、自信をもって何か発言できるようなワタクシになっていたいと切に願うのです。