とかく巷で言われがちな「女は感情でものを言うからやっかいだ」的な見解。発言する側の男性には、えてして”理性的”であることを自認し、それを裏付けるように理詰めで自らの正しさを主張しようという姿勢がうかがえるようで。。。
まぁ、そう言いたくなる気持ちもわからんのではないですが。男だから女だからという陳腐な前提は抜きにして、「正しいことを言ってあげたのに、感情的に逆ギレされて困った」という経験は、ワタクシにもないわけではないので。
たださ、これをちょっとばかし尊敬の念を抱いていた人に、あからさまにやられちゃうと「なんだかな~」って思うわけです。Mixiの某コミュの管理人氏なんですが、テーマに対する情熱的な探究心と切れ味鋭い筆致、発言の中に垣間見れるお茶目な性格。会ったことも、直接メッセージも交わしたこともないのですが、かなり好意に値する人物と、勝手に思い込んでいたのですから。
ことの発端は、その管理人氏の日記に付けられたコメントのやりとりにあったようで、すでに削除されている部分もあったりして詳細はわからないんですが、どうも管理人氏のある意味厳しい内容に、「感情的」な反論のコメントを書き込んだ女性がいて、さらには他のギャラリーをも巻きこんでケンケンガクガクな様相だったようです。
最終的に管理人氏は、それらのマイミクさんと「袂を分かった」そうなんですが、その経緯を記していくなかで、冒頭の言葉が出てきたわけです。
彼の書くものは、いつも楽しくわくわくと読めるものだったのに、今回ばかりは、なんだかな〜という、なんだかものすごい違和感を感じてしまったワタクシでして、さらには、ついでにリアルな仕事上でもなんだか感情がもとになったような不快な思いしてしまい。。。
ということで、そのちょっとしたワタクシの中の混乱を、ワタクシなりにほどいてみようという試みです。それもなるべく理性的に(笑)。
理性が高尚で、感情は劣等。そんなふうに誰が決めたんでしょうか?
そもそも、その理性ってどこから吹き込まれたんですか? 書物ですか? 常識ですか? 秩序の名のもとに抑圧を強いる誰かですか?
感情はどこからくるのでしょう。個人の体験に由来するケースがほとんどではないですか?
これは私の場合ですが、人と向き合う、関わり合うなかで、どんな形であれその人の感情の発露と思える場面に出会ったときにこそ、より深くその人を理解しようとするきっかけになったことがままあります。いわゆる”感情的”になる時にこそ、仮面の中にいる「中の人」の素顔を垣間見たような気がするのです。こういう状況を「痛いところを突く」というのでしょう。やりすぎると嫌われますが…(苦笑)
感情は伝播することもありますが、基本的にはその人の体験に根ざした、その人だけのものでしょう? だからこそ、ぶつかり合ったり、一方的に押し付けられて困惑したり、さらにはもつれ合ったりもするわけで。そりゃトラブルのもとにもなるというものです。
で、それを避けようとする処世の術として、押し殺す技術なんぞを身につけてみたりする。それが行き過ぎると、そもそも感じないという高等テクなどもマスターしてしまったり。。。
それがいいとか悪いとか言うつもりはないんですが、素朴なギモンとして、その押し殺されたり自ら無視してしまったりした感情ってどこに向かうのでしょう? エネルギー保存の法則からして、どこかに何がしかの形で作用するであろうことは推察されます。
それが思いもかけないところに向かって発動してしまうのは、怖いな~って思うのです。たとえば、理性というカプセルに包んだふりして知らないうちに他人を攻撃してしまったり、あるいは自分の肉体に向かってしまったりとか。。。
そんな不測の事態を招くよりは、いささか”感情的”になってしまっても、湧き上がる感情はそのときどきにしっかり味わっておけばよろしいんではないのか、と。
さらには、感情を選ぶ術というものもあるそうなんで、せっかくならばその腕を磨くチャンスと肯定的に捉えてしっかり向き合えばよろしいのではないかと。
その辺の処理能力が上がれば(これは脳の仕事なのかな?)、自分にとっての心地よさレベルも上がっていくような気がします。で、そんときに忘れてならないのが、頭もからだの一部ってことで、身体の不調は自分が思っている以上に、感情やら心やらに影響を与えてるってこと。
最近、「大人になった」「まるくなった(性格がですよ!)」と職場で評判のワタクシですが、腕のいい職人が、日々ワタクシのからだをほどいてくれているところに大きな要因があるようです。